fringe bagabond 1

 少女は旅をしていた。そして氷の国に辿り着いた。
 氷の国という名称とは裏腹に、うすら寒いというぐらいの気温だ。
 町の中では人々が黙々と動いていた。
 氷の国と言われる所以は、異邦人である少女に対しての無関心さであるのかもしれない。
 誰も少女に話しかけるものはいなかった。
 しかし少女は旅に慣れていた。異国の文化は少女にとっては所々新しく、それでいて受け入れがたい習慣もある。
 旅を楽しむ秘訣はそれらをそういうものだと受け入れる事。えらく抽象的であるが、抽象的に捉える事こそが肝要なのだ。
 そして、もう一つ肝要な事がある。それは新たなる事への興味と行動力だ。おぼろげに捉えるだけでは駄目なのだ。
 靄のように定まらない事をいつまでも記憶にとどめておけるはずがない。記憶するためには出来事に対する理由付けが必要なのだ。
 だから彼女は道歩いていた初老の男に話しかける。幸い、言葉は通じた。
 男は少女に話しかけられて初めて、少女の存在に気付いたようだ。しかし、驚く素振りはすぐにかき消え、表情が元に戻った。
「一つだけ覚えておきなさい。ここは氷。己を見失わないように、己を固める事だ」
 男はそれだけを告げ、人波へと同化して消えていった。
 少女はしっかりと記憶に刻んだ。
 時は夜へと移ろう。冷たい国だとは思ったが、仕事はきっちりとこなすようで、今宵の宿を得る事ができた。
 比較的値段が安い割には、小奇麗な部屋。そして国の人々の気質からか、一人で過ごしやすいように細かい所まで気配りされていた。
 なるほど、こういう理由なら旅に適した国である。少女は満足して眠りについた。


 ――不思議な夢を見た。
 『ここは氷の国。そう氷の国』
 少女と同じ声が暗闇に響いていた。ここは氷の国。そう氷の国。
 耳に残るまで繰り返された後、世界に光が満ちた。
 光の眩しさに目が慣れると、そこは氷の国。そう氷の国だった。
 綺麗な水をそのまま氷にしたようで、透き通っていた。そしてその氷に少女が幾重も映っていた。
 地面から生えた氷樹。空からぶら下がった氷柱。浮かぶ氷。
 そう、これは夢なのだ。ここで少女は夢だとわかった。
 それでもこの夢は少女を現実へと戻してはくれなかった。
 あるのは氷と少女自身の数多の姿。その少女達は揃って無表情だった。
 試しに少女は笑ってみる。鏡のように映った少女達は一拍遅れて笑う。口元だけつりあがる。
 非常に不気味な笑い方だった。寒さに気付いたように背筋が、身体が、震える。
「ここは氷の国なの?」
 思わず不安になって少女は声を発する。また一拍遅れて、映った少女達は声を発したのだ。

「氷の国であり、鏡の国」
「ここは鏡の国であり、夢の国」
「夢はどの行方に存在する理想」
「理想は孤独。満足しているのは孤独な己だけ」
「人は皆孤独。孤独だと思いたくないのは自我が悲しんでいるだけ」
「悲しみはいずれ薄まる。されど無くなる事はない」
「無くなったと思えるように、想い出を積み重ねるだけだ」
「無くならない。忘却できない。だって、それは意識しているのだから」
「意識するほどに刻み込まれる。深く刻まれ続ける」
「孤独は優しい。孤独だと思えば世界は一つになる」
「世界は己の内なる繭。世界は己の外にある棘」
 映った少女達は言葉を重なり合わせるように、息を合わせていた。
 あの少女が発したと思ったら、次の言葉は別の少女が発する。
 その景色はひどく幻想的で、ひどく冷たかった。言葉はまだ続く。
「繭の中は温かい。蛹が蝶になるまでは守ってくれる」
「でも外は見えない。食べられるかもしれない。その恐怖が自我」
「蝶は羽ばたく者。自我は羽ばたく先にもある」
「羽ばたくという事は旅立つという事。受け入れる事」
「最初の一歩は勇気。一度踏み出すともう戻れない」
「同じ場所に帰ってきた所で、元の温度は感じられない」
「貴方は何故旅を続けるの?」
「私は何故旅を続けるの?」
「その先に何を見ているの?」
「何を期待しているの?」
「そして何に傷つきたいの?」

 声が止まる。映った少女達が霞がかかったように滲み、そして黒い氷と化す。
 黒い氷にはまた少女が映る。しかしその少女達の表情は泣いている。
 本物の少女が泣いている姿を映していたのだ。
 先程の少女達は誰だったのだろうか。それはわかっている。少女自身の集合した意識。
 確率的に大多数の意見であっても、慎重派の注意が発せられるように、何事も反対する力、引っ張る力がある。
 では今映っている少女は何なのだろうか。それは認めたくなかった。在りのままの姿で孤独な意識。
 旅をする理由はあった。蛹だった少女の繭を突き破って地面に放り投げ出された。
 少女の拠り所だった木の枝は遥か高い所にある。繭の糸が風に空しく揺れる。少女の感情は酷く揺れる。
 感情は常に揺れているものだ。どんなに冷静になろうとしても冷静になろうとする意識、強制力が働く。
 感情は常に揺れていなければならない。一つの感情で在り続ける事は疲れ、そして腐ってしまう。
 水が溜まり動かない状態が続くと澱ができるように。感情は生モノだから、常に食べて、新たな感情を取り入れるのだ。
 人間の意識はその繰り返しで保っている。食べ物には栄養があるように、感情の種類によって得られるモノが違う。
 だから人間の意識は他者と異なる事ができる。他者と同一である意識はない。
 同じように食べている他者の姿を見るだけで、世界が変わるのだ。
 
「私はどうしたいのだろうか」
 途方に暮れたようなか細い声に応える姿はない。あるのは茫洋としている少女だけの姿。
 なるほど、自我を固める事を促したのはこういう事だったのか。
 冷静であろうとする少女の意識の一部が導き出す。
 黒い氷は動かない。
 歩くためには理由がいる。歩き続けるためには努力がいる。
 理由には興味を。努力は新たになろうとする願望を当てはめる。
 興味があるから歩く。新しくなりたいという気持ちがあるから歩き続ける。
 たったそれだけ。理由なんて果たして複雑なものなのだろうか。いや、理由は全て単純で簡易なのだ。
 複雑であろうとするのは、自身でもわからなくしたいという逃避。
 わからなければ努力をすればいいと答えられたら、もっと複雑にして諦めさせてしまう。
 複雑というのは意識の隠れ蓑であり、自己防衛なのだ。
 世界に対して自分はちっぽけな存在。何ができるのか。何の為に立っているのか。何故そこにいるのか。
 答えがわからない。だからそれは世界は広いからという簡単な理由を作り、繙かれないように複雑に結び目を作る。
 では、どうすればいいのか。
 その答えを導き出したのは一瞬だったのか、永遠のように長かったのかはわからなかった。
「今わかったよ。私が外に出された理由を知りたい……なんてのは複雑さだったんだ」
 黒い氷が揺らめく。
「ただ怒って泣いて。それだけじゃ意味がないと思っちゃった」
 黒い氷が透明に冒される。
「意味を求めるために人は旅立つ。新たな希望を抱く。……そんなありきたりな気持ちであり、ちょっとずれていた」
 氷が光輝く。
「人は生まれ変わる事はできない。変われるのは身に置く周りの景色だけだ。景色は変えられる。逃げるのも、自分で変えるのも、他人に変えてもらうのも待つ事ができる」
 氷が割れる。
「では何故私はこの方法――旅をする事を選んだのか。それは私を叱ってくれて包んでくれる世界が欲しかったのだ」
 割れたその先は暗闇だった。
「訪ねてくれる人が欲しい。尋ねてくれる人が欲しい。訊ねてくれる人が欲しい。我が儘で、それ以外はわからない」
 暗闇が氷で閉ざされる。
「そう、もうわからない。それ以外に歩く理由が思いつかない」
 氷の輝きが失われる。
「複雑な結び目がもう作れない。だから固まる事ができずに揺らいでしまう」
 氷が黒に染まる。
「己を見失わないように? そんな事ができるはずがない。世界が何なのかを分からずに立っている事自体が奇蹟なのだ」
 黒い氷に少女が映る。
「己を理解できている人間なんていない。だから人間であれる。だから人間は考え悩むのだ」
 映った少女が声をあげて泣く。
 絶望したように泣く。震えて泣く。泣き拉ぐ。
「今はさようなら、私の蛹」


 そして少女は目覚めた。陽の光は温かかった。
 少女は道を歩く。するとあの初老の男に出会った。
「己が固まりましたかな?」
「いいえ、見失っております。はい、泣いております。だからこうやって貴方に出会えたのです」
 少女のにこやかな自嘲に、男は笑う。
「運命を歩む勇気に完敗ですな」
 この国で見た初めての感情だった。